路上 梶井基次郎の日常の鋭敏な感覚を再現する描写の上手さ

梶井基次郎の「路上」は本当に日常のちょっとした出来事を題材にして、見事な余韻を残す天才の作品だと思う。

梶井基次郎(左)、中谷孝雄(中央)、戸村茂(右)
梶井基次郎(左)、中谷孝雄(中央)、戸村茂(右)

「路上」も何でもない日常を、梶井基次郎の見事な比喩で、読者の創造力を掻き立てる。

小学生時代に誰でもやった、泥の崖を滑らずに通る冒険の遊び心を思い出させる。

崖を滑り落ち、慌ててまたさらに滑り落ちる。

落ちた後の恥ずかしい感覚と、誰か見ていなかったか?という恥ずかしい感情、青年期特有の見栄を張る格好つけたい感覚が繊細で独特で面白い。

常に社会でのカッコよさを意識する青年期の見栄と、坂をすべってしりもちをした恥ずかしさの葛藤が見事に書かれている。

誰にでもある冒険心、濡れた泥の道を滑らずに降りれそうな誘惑に駆られて思わずしりもちをついた恥ずかしさ。

不意に泥道で滑った不思議な感覚。他に例えると、凍った道を歩いていてしりもちをついてまわりを確認する恥ずかしさの感覚が描かれている。

梶井基次郎の日常を敏感に生きている研ぎ澄まされた感覚が、普通の出来事を不思議な世界に導く天才的的ひらめきで描いたものだ。

青年期の鋭敏な感性と、どんな日常も文章によって立派な作品になる梶井基次郎の取材のどん欲さと表現した作品といえるだろう。

「愛撫」は梶井基次郎の遊び心

「愛撫」は梶井基次郎の作品の中で、一番気楽に書いた感じのする作品である。

猫の肉球
猫の肉球

こんなに遊び心のある作家だったのかと意外であった。「交尾」の緊張感のある、かじかの動物描写と偉い違いである。

猫を冷静に観察し、そのユニークなユーモラスな点を綴っていく。

猫への何とも言えない愛情と、生物学的クールな観察眼の両面があり、梶井基次郎の2面性が面白い。

理系的な観察と分析の目がある文学者なのである。「スティルライフ」の池澤夏樹と共通の理系的クールさがある。

「愛撫」での犬の率直な感情表現と、猫の不可思議に見える行動を、むしろ楽しんで、そのわからない部分に愛情を注いでいるのがわかる。

猫が爪を研ぐしぐさ、耳の不思議。切符切りのハサミでパッチンと挟んでみたい、というたとえなど、ユーモアと面白い発想がいい。

肉球の変な冷たさと質感の味わい方も妄想の楽しみである。

動物学者の様に冷静でいながら、不思議さを楽しんで描く。

この不思議な猫というパートナーに女性にも似た感情をもって接している。

最後に「爪を立てないでくれ」と、猫にお願いするところなどは、梶井基次郎の女房への懇願のようで、なんとも遊び心が感じられる。
リラックスした梶井のクールな名作である。

 

梶井基次郎 Kの昇天

梶井基次郎の「Kの昇天」は副題としてKの溺死というタイトルがついている余韻のある手紙形式短編。

梶井基次郎
梶井基次郎

ある夜の海での出来事を手紙形式で書いた短編である。

梶井基次郎は夜の描写が得意で、たくさんあるが、一番空想的で、ファンタジーがある作品は「Kの昇天」である。

青年の奇妙な行動、想像できる結末、意外な結末の解釈。

満月の夜の波打ち際で前に行ったり後ろに下がったりする不可思議な青年の映像が目に浮かぶ。

月の海に映る形に取りつかれている謎の青年。
溺死した青年を月に昇天したと解釈するロマンチックな発想。

夜の海という設定が不気味でいい。

不信な青年との出会いもいいし、その時の会話も夜らしい不思議な雰囲気を感じさせる。テクニックが上手い。映像が浮かんでくる。

やはり梶井は天才である。

梶井基次郎「過古」

梶井基次郎の超短編作品「過古」を読むと、無性に母親のことを思い出す。

若い学生時代は一人暮らしだと、けっこう淋しくて辛い。

生活するのがやっとで、実家に帰る余裕などない日常。

ふと母の笑顔を思い浮かべると泣きそうになる。

どうして母の顔はこんなに懐かしいのだろう。

不思議だが、どうしようもない感情。

梶井の過古は郷愁を書いた短編である。大学の時読んで、身に染みた。

母の苦労、心配が思い出された。淋しくなる瞬間である。

実家の魅力は居るときは気づかない。アパートに居るときにわかるのである。

梶井基次郎 ある崖上の感情 厳粛な感情を見る

梶井文学の傑作、ある崖上の感情。

梶井基次郎
梶井基次郎

東京の夏の入り組んだ住宅街、小さな坂のある土地、東京の風景を想像できなければ成り立たない小説だと思う。

夏の夜の散歩の感覚の青年の孤独感が、理解できなければならない。

小説の冒頭のカフェで、夜の散歩の話をしている青年の会話を聞いて、自分も夜の散歩に出る。その序盤の誘導させる青年2人の会話を入れているところに梶井の構成力の魅力がある。

他人の会話から誘導される自分のフワフワした感情がロマンチックで不思議な感覚である。

梶井基次郎
梶井基次郎 右

小さな外灯のランプのオレンジの色が想像できなければ成り立たない。蛍光灯のような白色灯ではダメな世界である。

灯りの当たらないところは真っ暗で、オレンジの淡い電灯の懐かしい光と、漏れてくる家の電灯のオレンジ色の灯り。

あの東京の夜の感傷的な何とも淋しい風景が舞台になっている。

ひとりの青年の孤独な夜の散歩、その心理を理解しなくてはならない。

あの外から見た家の窓あかりは本当に感傷的になる灯りだ。

一人暮らしの青年が郷里を思う灯りなのだ。セックスをしている夫婦の情景を見たりして他人の生活を覗き見てしまう照れくささ。そこにはまさに生への営みがある。

その風景のなかにある病院の窓が開いていて見え、死に直面している患者と汗を拭きながらも見守る家族の映像が描写される。

窓から覗き見るその風景は、遠くに見えるから余計、周りの暗さのなかに浮かびあがる。

そこに一斉に動く窓からの家族を見つけ、今、まさに患者が亡くなった死の瞬間を見る。
生の感覚と死の感覚に出会う偶然の感情。厳格な人間の運命。

覗き見る他人の家族とその死の厳粛な瞬間。

梶井の緊張感ある描写は、夜のある光景を鮮明に映し出す。

これほど何気ない日常を描き出す梶井の描写力は、やはり天才というしかないのである。

梶井基次郎 器楽的幻覚 青年期の妄想癖

「器楽的幻覚」は、はじめて私が梶井基次郎の表現の天才性を知った作品で、とても印象に残っている。

梶井基次郎
梶井基次郎

クラシックのコンサートでの聴衆と自分の違いに、次第に不機嫌になっていく妄想を書いたものだ。

随分ひねくれた聴き方をする人だ、と梶井のコンサートでの空想を、ただの変わっている人と感じたが、青年期には、こういう社会と自分の共通点や違いに悩む妄想癖のある時期だと思うのだ。

これから社会にでる大学生が、自分とは何かと悩む心情は理解できるし、社会に対して偏見を持つのも青年期の特徴だ。

梶井がコンサートに違和感を感じるのは、自分と社会との違和感を常に感じている日常の葛藤が、たまたまコンサートでの静かな聴衆に触発されて、再現されたに過ぎない。

舞台で殺人を犯すという空想も、梶井が檸檬で丸善に檸檬を置いて、時限爆弾という空想を楽しんでいる妄想と変わらない。
梶井はそういう妄想好きな青年であり、その妄想の豊かさと文筆力が、文学を目指すきっかけになったのに違いない。

梶井文学はまさに青年期妄想文学といってもいいのである。

闇の絵巻 梶井基次郎の闇の映像の世界

新潮文庫版 梶井基次郎 檸檬
新潮文庫版 檸檬

今や高校の教科書にもある梶井基次郎の短編「闇の絵巻」は、青年期の文学といえる感覚的映像美の最右翼と言える作品。

梶井基次郎
梶井基次郎

こんな小説を教科書に載せる時代になったのか!とうれしいけれど、本当にこの繊細な美の感覚が共感されるだろうか?と疑問であった。

とても地味な内容であること。どちらかというと暗い小説であることなどで、普通の人は嫌う内容に感じてしまうと思う。

元気な高校生にこの繊細な感情がわかるのか疑わしかった。冒頭部分の例えが、まずうまい。すでに冒頭で引き付けられる。

闇の中を泥棒が棒を前に突き出しながら走って逃げる、という闇の真っ暗な黒い世界への恐怖の感覚が描かれてる。

 

その恐怖は、裸足でアザミを踏んづける、という刺のある植物を踏んづける痛い感覚で、人間の本能的な痛いものへの怖さを例えて説明する。

「闇の絵巻」は内容は夜の散歩の話なので、現代の高校生にはあまりにも地味すぎる内容だ。

闇の中の夜の散歩の途中、川の音がする場所に石を投げて、闇の中から、かすかな果実の香りが漂ってくる。

この何も見えない中でいい香りがしてくる繊細なオシャレな感覚が、今どきの高校生に本当に共感されるのだろうか?と思ってしまう。

闇の中で激流の川の流れの音がする場所に差し掛かると、まるでシンバルを鳴らしたような驚きの表現もシンバルを鳴らしたようなという例えが素晴らしい。
この梶井基次郎の映像が浮かんでくるような例え方が何とも上手くて感心してしまう。若い自意識過剰な鋭敏なキレのある描写である。
何気ない夜の散歩を題材にして、ここまで映像美が表現できるのは、まれで、一般人には共感しづらい繊細な小さな世界すぎるのだ。

多分、映画の映像美の世界であり、それを言葉で表現してわかってもらうために、梶井基次郎の例えの言葉のチョイスの上手さがある。

短編なので教科書向きといえるが、やはり「檸檬」の方が高校生には理解しやすいと思う。

梶井基次郎
梶井基次郎

梶井基次郎の短い生涯の傑作は?

若くして31歳で亡くなった梶井基次郎の作品で傑作はどれになるか?

梶井基次郎
梶井基次郎

梶井基次郎は美術の世界で例えれば、画家のフェルメールと似た作品の少ない創作者と言える。

文庫1冊なので読むのも時間がかからない。芥川龍之介のように短編なので持久力がいらないのだ。

しかし、その短編の中に表現が研ぎ澄まされていて、映像が浮かぶ文章なので、余韻が残る文章が多く、若い時特有の感受性の豊かさと鋭さが凝縮されている。

若い時に読まなければ分かりづらい作品で、感性が鈍ってからの大人では理解しづらい作品だと思う。

その梶井基次郎の作品の中で傑作は何か?と言われると、実は、ほとんど駄作が無いのである。

ただ、おおざっぱにくくると、鋭さを感じさせるものと、のんびりした感じの作品に分けられると思う。

「城のある町にて」や「愛撫」「のんきな患者」は梶井ののんびりした魅力を感じるとしても、これこそ梶井の傑作とは堂々と言えないだろう。

あくまでも梶井基次郎の異なった文体に挑戦した、という感じがして、習作的な要素をどうしても抱いてしまう。

特に「城のある町にて」などは、梶井基次郎しか感じえない研ぎ澄まされた緊張感を感じる小説ではないからで、彼自身の独自の感受性が生かされたものは、「闇の絵巻」などのやや暗い小説にこそ、生き生きと表現されていると思う。

私が傑作だと思うのは「交尾」「ある崖上の感情」「冬の蠅」が最高の傑作であり、次いで「闇の絵巻」「冬の日」などもすばらしいと感じる。

「檸檬」は、まだ内面の精神の深さが感じられないのだ。若さと希望に満ちている時期の野望をもった挑戦的な作品といえる。梶井が読者に問うような作品だ。梶井の若いユーモアが出ている小説だ。檸檬を時限爆弾に見立てたアイデアは素晴らしいけれど。

「愛撫」は梶井の性格を良く理解した後、読んだ方が、あの軽さと冗談の遊び心がわかる。梶井の一面ではなく、理系的なもう一つの裏の性格が理解できると喜びがある。

梶井基次郎が元々関西の出身ということも大きいだろう。梶井の表現力は同じものを見ても、それを文章にするときの映像化できる描写力のすばらしさだ。

同じ物を見て、それを伝えるときに相当に苦労して試行錯誤してひねりだしているのを感じさせないのだ。比喩や例えるものがとても上手い。

噺家が伝え方に気を付けるように、梶井基次郎は小説で、比喩をひねり出す能力の天才的な感性がある。

なので、梶井の作品をたとえ映画化しても、小説と同じように感動させることはできないと思う。文章だからこそ表現できる比喩そのものが素晴らしいからである。

梶井基次郎は、たとえ長生きをしていたとしても、あのような若い感受性を長くは保てなかっただろうと感じる。むしろ若いからこそ表現できた感受性の豊かさと、それを比喩を通して伝える文章力があったからこそできた作品なのだと思う。