芥川文学のなかで、私は奇妙な話が好きなのですが、「南京の基督」と「魔術」、「アグニの神」のような奇妙な内容の作品に特に惹かれます。

「南京の基督」は、中国の少女が基督との売春によって、自分の病気が治り、代わりにキリストが病気を移される話、
「魔術」はインドの魔術を手に入れたい日本人の欲望と、それを手に入れるには、欲望を捨てなければならないという魔術を手に入れる難しさを描いた作品です。
魔術を手に入れるために夢の中で、罠にかかり、賭けをする夢を見て、金の欲望に掛かり、インドの友人から結局、魔術を教えてもらえない話です。
どちらも夢の世界が話の途中から入り、それに気づかずに読んでしまう芥川のテクニックにはまります。
「南京の基督」はキリストに会ったのはまぼろしで、実は日本人の別人なのです、それを中国の少女がキリストだと勘違いする夢を見て、夢から目覚めると、病気は治っていたのですが、キリストではない、ただの人が、病気を移されて、発狂してしまったという現実をその少女は知らずに、キリストに感謝して生活しているのです。
楽観的な少女の影で、梅毒を移されてくるってしまった人を知らない少女の平和さと、残酷な病気を移された男のギャプのある話です。
「魔術」は日本の青年がインドの友人が魔術をできるのを知り、それを見せてもらい、自分も魔術を手に入れたくなる欲望の醜さを描いています。
超能力を手に入れても、欲望を捨て去れば、魔術を使って自分の膨らむ欲望を押し広げられないというギャップ。
芥川の人間の弱さを描いていて、そのクールな人間観に惹かれます。
気取っていても、現実の欲望は人間は我慢できない弱さを描いているところが芥川の好きなところです。
芥川自身が、人間の醜さをいやというほど見てきたからでしょう。
「蜘蛛の糸」や「芋粥」、「杜子春」など、初めの願望からその願望が変わり果ててしまう残酷さを芥川は好んで小説に描いています。
その人間不信の心理が、巧みに文学のストーリーに組み立てられ、短編で表現されています。
長くないのが芥川のいいところだと思います。
梶井基次郎もそうですが、短編に凝縮して無駄なフレーズが無いところが好きなのです。
これkらも芥川文学、梶井文学を紹介していきたいです。